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2001/9/27 マッチ売りの少女:完結
島崎は少女にマッチを3千万円分買わされ、マッチは社に保存してもらった。規約によると年間1千万円の運用利益が入るはずだったが・・・。
おりしもバブルが崩壊し、マッチの値段は下がる一方。一年後、3千万円分のマッチは3分の一に値下がりしてしまう。 島崎はマッチ会社に談判に行く。「これだけの損失を蒙るというような危険に対する説明が不十分だった」として、少女に詰め寄るが、少女は危険性について十分に説明した、という。 島崎はマッチ会社のやり方を不服とし、刑事告訴する構え。以前妻の交通事故死の時に世話になった大沢弁護士のもとを訪れる。 だが、大沢は今回の裁判に勝ち目は薄いという。投資にリスクはつき物、それにマッチ会社があくまでリスクを説明した、と言い張るようでは証拠不十分は目に見えている。 だが、大沢は勝てる方法がひとつだけある、という。 翌日、大沢は友人の神谷医師のもとを訪れる。 神谷は臨床心理の治療法を専門とする医師。大沢とは高校の同級生。 大沢は、マッチ売りの少女に催眠術をかけ、裁判で事実を証言するように暗示をかけることを依頼。 神谷はめんどくさいといって最初はゴネるが、結局金の力で承諾する。 その夜、代々木公園のベンチを少女が通り過ぎようとすると、不思議な感覚に包まれる。十分ほどの記憶がない・・・。 寒い夜、神谷は愛車のボルボで家路についた。 翌日、裁判で島崎は勝訴する。同様にマッチ会社の詐欺まがいの商法に引っかかった老人たちも次々と勝訴。 後日、大沢と神谷はドトールで会う。 「よくやってくれたな」 「馬鹿言え、俺は何もしていないぞ」 「えっ、じゃあ、なぜ・・・。」 「催眠術をかけて話をしているうちに、彼女はこう言ったんだ。『ごめんなさい、島崎さん・・・』そう言って泣いたのさ。俺は確信したね。何もする必要がない、って。」 「なにもしてないんだったら、金返せよ」 「やだよ。」 完
2001/9/13 正義論
「正義」とは何か。「悪」とは何か。
人類の永遠のテーマといえよう。 アメリカの同時テロ事件。我々民主主義陣営の国民は、こぞって「イスラム原理主義のやり方は理解できない」という。加えて「悪だ」とも。 確かに我々の感覚から言えば、非戦闘員である民間人を多く殺傷した今回の事件は、非人道的であり「悪」そのものである。 しかし、このようなことが戦争中に行われた場合、どうなるであろうか。 おそらく、「悪」という概念は通用しないであろう。 なぜなら、戦争という場合においての「正義」とは、戦争の当事国双方に発生するものであるからだ。 その「正義」とは、「勝利」に他ならない。 国家の役割とは先ず第一に自国民の安全を守ること。それが国家の正義。戦争という事態に陥った場合、当然敗北は多くの国民の命を危険にさらすことになる。よって勝利こそが正義なのだ。 今回のテロは、国家主導のものであるかどうか未だ分からないが、イスラム原理主義という思想団体が絡んでいることに間違いはない。 イスラム原理主義とは、コーランの思想に基づき、俗社会を根絶しイスラムの原点に戻ろうとする考えである。 彼らの最も邪魔とする俗社会の根源であり大元であるのが、アメリカという巨大な社会であった。このままアメリカをのさばらせては俗社会の根絶など不可能であるのは言うまでもない。アメリカを国際社会から駆逐するというのが、彼らの「正義」である。 正攻法ではあの大国を突き崩すのは到底無理である。そこで彼らは「テロ」という手段を取った。 テロが卑劣な行為であることは彼らも百も承知のはずであろう。なぜなら民間人を殺傷してもいいという教えは、コーランのどこを探しても見つからない。 だが、彼らはやらなければいけなかったのだ。打倒アメリカの方法はこれしかないのだから・・・。 ここで彼らの「正義」についてもう一度考える。イスラム原理主義は思想団体。彼らの中核となっているのは「思想」そのものである。思想を殺すこと、つまりアメリカを黙ってのさばらせておくこと、それは彼らにとって、いわば国家が敗戦によって「正義」を完遂できない場合同様に、自らの「正義」を捨ててしまう結果になるのではなかろうか。 正義にはさまざまな形がある。奇しくも今回のテロでそれが浮き彫りになった感がある。 「生命」を守ることを正義とする、我々を含む民主主義陣営。 「思想」を守ることを正義とする、イスラム原理主義。 異なった主義の正義と正義がぶつかるとき、結果どちらかの正義が失われることはいうまでもない。
2001/9/12 神風テロ
「世界の警察」を自負するアメリカにとって、今回のテロで受けた「自国民さえも守れない」という屈辱的な事実は相当な痛手だ。
テロリズムを卑劣と言う前に、その卑怯な手段を防ぐべく手立てを用意せねばならぬ。 実際、今回のようなケースでは、結果としてアメリカに対し大きなダメージを与えることができた。 これはもはや地域紛争の一手段としての「テロ」の域を越えている。 「テロ」は立派な「戦争」における「戦術」となったのだ。 今後、国際紛争、すなわち国家対国家の戦争において、「テロ」が相当有効な戦術だということが証明されたわけだ。 戦争を描くアーティスト、戦略家たちの頭の中に、「テロ」の二文字は大きくインプットされた。 「テロ」は戦争に不可欠、そういう時代が来てもおかしくは無い。 なぜなら、「テロ」こそが相手に甚大な被害を及ぼすものであるからだ。 非戦闘員である民間人の殺傷は、古来戦争という禍々しきものにおける常識であり、常套手段であった。いまさら何らとやかく言われるべきではないのだ。 「テロ」に脅える日々−そんな「非日常的」な空間が、待ち望まれている、そんな時代である。 |
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